fuanteinayoake

fuanteinayoakeそれを君も待ってるんでしょ。

つらいつらいつらつら

つらいつらい言ってないでとりあえず行動に移せばいいじゃないか

というご指摘ありますよね。

そういいながら作業できる人本当にすごいと思います。

尊敬します。

行動に移すというの、すごく大変ですよね。

ただでさえ、一日中つらいのに、行動しちゃえばどうにかなるでしょという考え。

どのくらいのつらさかによりますね。

私はここ最近、常に80オーバーつらいくらいです。

さっきも、しにたいって声をあげながら自転車をこいでました。

自転車こげるだけですごいかもしれません。

行動にうつすことによって心が落ち着いていくのならそれでいいですが、

何をしていても罪悪感がひどいです。

ただ本を読んでいても、音楽を聴いても罪悪感がひどい。

文章を書いても、勉強をしても何をしてもどうしてそんなことするのかという声が聞こえる。

なにをしてその罪悪感がついてまわる。

どうしたら楽になるのかわからない。

どうやって乗り越えれるのかしりたい。具体的なこと。

人生活動

就活して、なにかしらの職を得て働いている人みんなすごい。
なにがすごいかって、諦めずに人生をあゆんでいこうとしている姿がすごい。
その分、そうやって活動している人を見るとつらくなる。
どうしてそんなにも自分の人生のために頑張れるのかわからない。
もしかしたら、自分の人生のために就活しているわけではない人もいるかもしれないけれど
働くということは、社会的に認められて、お金をもらえて、生活していけるということだ。
それを目指すということは、生きることを目指すということだ。
みんなすごい、ほんとうに、私にはまねできない。
生きるために働くのはあたりまえ仕方がない、じゃあ働かないで飢えて死ぬのかといわれてしまう。
私が言うのも変だが、そんな極論の話なのかとも思ってしまう。
働かないと必ず人は死ぬのか、お金がないと人は死ぬのか。
だったらもうそれでいい気がしないでもない。
この社会になじめなかっただけの話であり、それを受け止め、来世に期待しようではないか。
みんながみんな就活して就職して働いているわけではないけれど、
だったら、ほかになにか頑張れることがあるのかと問われてしまう。
他人から評価されお金を得れるような素晴らしい功績を残せるのかとなってしまう。
頑張れることなんて何一つない。
自分が生きるために頑張れることなんてなにもない。もう生きていたくない。
だから、いやだ死にたいといいながら就活をしていう人たち、ほんとうにすごい。
死にたいのは就活がうまくいかないからであって、自分の人生に絶望しているわけではないと考える。
本当に自分の人生に興味がなければそもそも就活なんてしないのだ。
ほんとうに嫌なことは人間できないようになっているとつくづく感じる。
私には無理だ。絶対にいやだ、死んでもやりたくない。
だったらもう死ぬしかない。これ以上生きていても、希望がない。

朝起きれるようになったわけ

どうしてこうも眠たいのだろうか。
何をしていても眠たい。半分覚醒しているみたいに眠たい。
朝起きたときは地獄のように眠たい。
金縛りにあってるかのような体を無理やり動かして起きている状態。
きっと頭は半分夢をみているのだと思う。ほんとうに頭が重たくて眠たい。

そんな私が朝起きれるようになったのは、朝ご飯を食べるようになったからだ。
ホットサンドメーカーをもらってからそれを作るようにしている。
起きれるようになっただけで、気持ちよく目覚めるとか、起きた時に全然眠たくないとかいうわけではない。
金縛りにあっているような重たい体だけれども、起きて行動することは可能であるということがわかった。
そのため、起きて朝ご飯を作って食べ、シャワーを浴びてコーヒーを飲んでも眠たいので
朝の一連の流れを済ませると、私はまた寝てしまうことが多い。
とんでもなく眠たいのだ。
私の交感神経は鈍感なので、どれだけゆすぶってみても起きてくれないのだ。
それでも、朝起きて行動するということが、私を肯定してくれる作業であることは間違いないので続けるようにしている。
だから、地獄のように眠たい朝を送っているみなさんには、遅刻してでもいいから朝ご飯を食べてみてほしい。
それからもう一度ゆっくり眠ってもいいし、頑張って外出してみてもいい。
この朝ご飯には自分のお気に入りのものやおいしいと思うものを食べてほしい。
パンでも少しあっためるとか、フルーツを食べるとか満足感にこだわってほしい。
そうでないと、続かないのである。
私も、朝チョコレートを食べるだとか試してみたけれど駄目だった。
でも今回こうやって続けることができているのは、自分が手を加えている、自分のために特別な朝ご飯を用意しているという
満足感があってこそのものだと考えている。

これから

玉ねぎスープを作り、ハムスターに餌をやることしか今後の楽しみがありません。
楽しみがあるだけいいじゃないかと思われますが、逆に、玉ねぎスープとハムスターだけで
一生楽しみ続けることはできるのでしょうか。私の一生を支えてくれるのでしょうか。
玉ねぎは季節が変われば新玉ねぎでなくなってしまうし
あと二年もすればハムスターは死んでしまいます。
そしたら、私も一緒に死んでしまえばいいのでしょうか。
人生、他人に頼るのではなく、自分自身で切り開いて、探して、生きていかなければならないといいますが、
もう自分の人生にあまり興味がないのですね。
こういうと、自分が逃げているかのように見えますが、実際、人間というのは本当に嫌なことはできないようにできています。
もう何年か前はかろうじて、なりたい自分や、やってみたいことなどがありましたが
もうそれも思い出せません。一体、自分が何を目指していたのかわかりません。
何かを目指すためには莫大な時間とお金が必要です。そしてそれを支えるための強靭な夢がないといけません。
私には何もなかったのです。莫大な時間で空っぽな自分がただ生きるためのお金を稼いでいただけです。
手を広げたり握ったりして、みんなが頑張っている姿を目を細めながら見つめるほか検討がつかないのです。
もう、いいじゃないですか、これ以上生きても、私が私の元へ帰ってくるイメージが持てないのです。

しばらくは、文章を書くつもりでいますが、それもまた、なにもわからないままです。

天国最高じゃん

今日、お昼寝から目が覚めた時に、

今までに味わったことないくらいの気持ちよさで

ついに天国にこれたんだと思った。

気温とか、体を包んでいる毛布の感触だとかが全部最高だった。

とろけるかんじってきっとこういうかんじなんだね

目が覚めていくうちに、あぁ、これは現実なんだって戻されたけれど

本当にとてもクレイジーに最高だった。

五月のお昼寝、最高だぜ。

 

そういえば、だんだん耳が悪くなっている気がする。

私は言葉を聞いて処理するときに、

音→言語化→理解という手順を踏んでいると考えたときこの

音→言語化という部分がうまく機能していないのである。

要するに、音は聞こえるけれど、ぼやけて聞こえてなんて言っているのかわからないのである。

そのため、その会話の状況、相手、母音の感じや文字数の感じから相手の発した言葉を推測して当てはめていく。

授業中に先生の言葉が少しずつ聞き取れないともうそこでゲームオーバー

板書をしっかりしてくれる先生なら取り戻すことができるけれど、黒板になにも書かれていなかったら結構地獄。そもそも、みんなが教科書の何ページ目を開いているのかさえ分からないのだから。私的には、教科書のページ数を逐一黒板に書いてくれる先生は最高にいかしてると思う。

そう考えると、私は少し会話する間にも、ものすんごく頭を使っていることになる。

すんなり聞き取れるときはもちろんそんな思考回路をたどってはいないと思う。

しかし、聞き取れないとなると、頭をフル回転させる。空気を読む練習にはもってこいかもしれない。状況だけで、相手の言葉を推測しなければならないからね!

だから私にとって会話は緊張するものである。実は全然違う話をしているのかもしれないと考えると自分から言葉を発するのもおっくうになる。大人数で話しているとき、だんだん言語処理が追い付かなくて宇宙を感じる瞬間がある。

私にとって会話は宇宙。

聞こえる言葉は刺激的。

見える言葉は居場所的。