ネットには語る場面がない
自分のことを誰かに語りたい。
今日あったこと、産まれたときのこと、今ちょっと眠たいこと、幼稚園の時に好きだったお菓子のこと、今ちょっと欲しいもの、どうでもいい嘘と冗談、割と本当に悩んでる将来のこと、それから明日の夜ご飯のこと。
どうでもいい、自分のことを誰かに語りたい。
ネット上で発信することは、一方通行だから
私の気持ちを誰かが受け取ることによって、私の気持ちを存在させることができない。
ネット上で話を聞いてくれる人は
どんな気持ちでせっしてくれているのかわからないから
結局、どれだけ自分を語っても、それを存在させることができない。
頭を整理することはできるかも
でも、それ以上は期待出来ない。
あぁ、それも結局インプットなのだ。
それも結局頭の中に言葉が閉じ込められるだけなのだ。
ネットはインプットだけだ。
それも、ものすごい量と速さのインプット
僕達はそれをどこで、アウトプットすればいい。
僕達がネットで得ることが出来る情報なんてアウトプットしても、そんなもん幼稚園児でも知ることご出来る。
アウトプットに意味が無くなってきてしまった
それは大変、大変なことです。
僕のいまこの頭の中の言葉の洪水はみんながネットに繋げばわかるぽっちのことで溢れているのか
そして、それさえも誰かに語り、存在させることができないのか。
そこで、考え得たものは、はたして、誰が頭を使った産物なんだ。
そう、だから
日常で起きたどうでもいいことを誰かに語って受け止めてもらえないと僕達は存在していない、生きていないのだ。